2009年 第二次世界大戦、キューバ危機、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争について
第二次世界大戦
なぜ戦争が起きたのか
第二次世界大戦は、1939年から1945年にかけて枢軸国と連合国との間で行われた世界規模の戦争である。主な戦場はヨーロッパ戦線と、アジア・太平洋戦線。
1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻が発端。その後1941年、日本がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争が勃発。これにより、枢軸国と連合国による世界大戦へと発展していった。
【枢軸国(すうじくこく)とは】
第二次世界大戦から戦時中にかけて、日本・ドイツ・イタリアなどの三カ国を中心として、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国に対立した国々のこと。
戦争が起きた結果どうなったのか
1939年、ドイツ軍によるポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦は、1945年8月15日、日本の降伏によって終わった。
◆多くの死者を出した。
第二次世界大戦による犠牲者数は、軍人戦死者数、約2700万人、民間人死者数は約2500万人と言われている。
◆原爆(原子爆弾)が日本に投下された。
調べての感想
戦争を行ったことで、民間人が約2500万人も亡くなっているという事実に驚きました。
軍人を合わせると、約5000万人もの死者が出たことになります。
約5000万人もの死者を出した戦争は、結局誰かを幸せに出来たのだろうか。
私は戦争によって幸せになれた人は、この世に存在しないと思う。
また、戦争があったから学べたなどという意見にも納得は出来ない。
何故なら、今だ核を所持する国や、戦争が行われている国があるからだ。
この記事を書いた人【 柴本恵美 】
キューバ危機
1962年10月15日、キューバにて13日間続いた米ソ間の冷戦が頂点に達して核戦争の危機を招いた国際緊張の事である。
キューバの歴史
スペイン植民地→アメリカ支配→社会主義
なぜキューバ危機が起こったのか
アメリカ支配の時代にフィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となって、
アメリカ合衆国の影響が強かったフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒した。
これが、キューバ革命である。
キューバ革命は、社会主義革命を目指したわけではなかった。
革命後直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、アメリカがこれを拒否し、それによりキューバは、
アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を開始することとなる。
当時のキューバ首相カストロは、アメリカ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求し、
ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。
これに対してアメリカケネディ大統領は、キューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検
を行うことでソ連船の入港を阻止しようとした。
また、テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。
さらに、アメリカは、ソ連との全面戦争に備え国内に核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備し、国外に駐留する基地
を臨戦態勢に置いた。
ソ連も国内とキューバにミサイルの発射準備した。
その一方で、アメリカはソ連へのミサイル撤去の交渉を開始する。
ソ連からアメリカへ妥協案が示されるが、アメリカにとって受け入れがたいものだった。
さらにキューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍の偵察機がソ連軍の地対空ミサイルで撃墜
され誰もが第三次世界大戦の勃発を現実のものとして受け入れた。
しかし、ソ連がミサイル撤去の決定を発表、キューバに対するアメリカの介入も減少し米・ソの
核戦争は回避され、平和共存へと向かっていくことになる。
このキューバ危機を教訓として、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがロシアとアメリカ 間に初めて設置された。
調べての感想
キューバ危機は、第三次世界大戦が勃発すると危機でしたが、
実際、戦争が起こらなくて、本当に良かったと思います。
どんな理由であれ、戦争は誰も幸せにはなりませんから。
この記事を書いた人【 きよちゃん 】
朝鮮戦争について
なぜ朝鮮戦争がおきたのか
・1945年第二次世界大戦後、日本が植民地としていた朝鮮半島の統治権を放棄し、朝鮮半島を横切る北緯38度を境にアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインがひかれた。
・1948年8月13日に、アメリカが推す李承晩が大韓民国の成立を宣言
・韓国の成立宣言に対抗して、金日成は9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立
・1950年6月25日午前4時に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が韓国(大韓民国)に侵攻したことにより朝鮮戦争が起きる
・1953年7月27日に板門店で休戦協定が結ばれる
戦争が起きた結果どうなったか
・朝鮮戦争の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷、北朝鮮軍は約52万人、中国人民志願軍は約15万2千人が戦死した。
民間人の犠牲者は北朝鮮の死者が250万人、韓国は133万人になるといわれている
この犠牲者の数は15年間続いたベトナム戦争に近い数である。
・夫が徴兵され戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた
・両軍の最前線38度線が韓国、北朝鮮の事実上の国境となり南北間の往来が絶望的になった。
・現在も、この朝鮮戦争は「休戦」状態であり戦争は終結していない
調べての感想
・現在も韓国と北朝鮮は休戦状態で戦争は終ってません。
身近な国なのに、全く知らなかったのでショック受けました。
この記事を書いた人【 雲井るみ 】
ベトナム戦争
なぜ戦争が起きたのか
ベトナム戦争とは、形式的には南北ベトナム間の戦争だが、実質的にはアメリカを代表とする資本主義陣営と ソビエト連邦、中華人民共和国に代表される共産主義陣営の対立を背景とした「代理戦争」のことを指す戦争です。
当時、ベトナムは元宗主国(従属国に対して宗主権をもつ国家。)であるフランスに対する闘争の結果としての
北ベトナムとフランスがベトナム再征服を有利に進めるため作った傀儡政権(形式的には独立しているが、実質的には
他国によって操られている政権。 )に分裂していました。
このようなフランスによる南ベトナム建国の経緯があるため、北ベトナムは対フランス独立戦争の延長としてベトナム
戦争を捉えていたと言われています。
フランスがベトナムを撤退した際に一度休戦協定が結ばれるが、圧政を敷いた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム 政権が、国民の反感を集めると、これをチャンスとみた北ベトナムは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を設立、 南ベトナムへのゲリラ活動が活発化することになりました。
対する南ベトナムでは、独裁化と圧制に走り続けるゴ・ディン・ジエム政権に反感を持ったアメリカの黙認に よって軍事クーデターが起きますが、その後も政権は安定せず、ベトコンに対する有効な手など全く打てない状況が 続いてしまいます。
当時のアメリカは、「一国が共産主義国となれば、その周辺国まで軒並み共産主義国になってしまうのでは ないか」という恐怖に取り憑かれていました。結局、アメリカが、南ベトナム防衛のための武力介入を決意しました。
ベトナム戦争の開戦原因は、とても複雑で分かりにくく、さまざまな要因が絡みあって起こった戦争です。
調べての感想
プラトーン、フルメタル・ジャケット、天と地、パールハーバー…戦争は映画で学んだと言えるくらい、 たくさんの映画を観ました。
その中でもベトナム戦争はとりわけ多く映画化されている。
戦争というイメージは?と問われたら、すぐに思いつくのが、兵士たちの虐待。主に女性に対する暴力である。
そして、"カジュアリティーズ"という映画を思い出す。
この"カジュアリティーズ"という映画は、他のベトナム戦争映画とは趣が異なり、アメリカ兵士が戦争によって 精神を病み、狂気に犯されていくという設定ではなく、ベトナム人少女を凌辱した挙句に射殺するという、 アメリカ兵士の醜さや残酷性を事実に基づいて描いている。
マイケル・J・フォックス演じる主人公は、上官から少女を凌辱するよう命令されるのだが、拒否し、 仲間であるはずの兵士達に命を狙われてまでも告訴する。
彼の全てが狂気と化した戦場でブレない信念を貫き通す姿がとても印象に残っている。
自分も周りに流されずに、常に彼と同じような信念を貫く行動を取る人間でありたいと思う。
この記事を書いた人【 Yass 】
湾岸戦争
1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したことをきっかけに、国際連合が多国籍軍を派遣し1991年1月17日にイラクを空爆したことで始まった戦争。
なぜ戦争が起きたのか
1988年8月20日に、イラン・イラク(サダム・フセイン大統領)戦争が停戦した。
イラクは戦争中、アメリカ合衆国やソビエト連邦などの大国に援助され、中東では軍事力
が最大になったが、600億ドルの戦時債務を抱え、唯一の外貨獲得手段である石油輸出が安値を推移し、
また戦災によって経済回復も遅れていた。
イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物や工業部品の輸出を制限し、
食糧などをアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮・フセイン大統領は追い詰められた。
一方、サウジアラビアとクウェートがOPEC(石油輸出国機構)の割当量を超えた石油を増産し、
サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っているふりをして裏で海外に売りさばいていた。
クウェートはOPECを完全に無視し大量に採掘して原油価格は値崩れを起こし、石油価格の大幅な下落によって
石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。
クウェートはルメイラ油田から大量採掘を行ったが、このルメイラ油田についてはイラクも領有を主張しており
(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)、「クウェートの行為は盗掘だ」と非難。
またクウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が起こり、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済
させる運動が起こり、クウェートはイラクに返済を求めたが当然イラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を
要求され両国は外交的衝突した。
フセイン大統領はOPECに原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。
しかしOPECは聞き入れず、サウジアラビアやクウェートは更なる増産を続けた。7月25日にフセインと会談を行った
アメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使がこの問題に対しての不介入を表明し、ついにイラク軍が
動いた。
7月27日にはクウェート北部国境に機甲師団を集結しているところをアメリカ軍の偵察衛星が発見した。集結した
戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。
アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はまるで相手にしなかった。
エジプトは仲介のため動き、OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに
引き上げたが、フセインは不満だった。
クウェートは充分な防衛体制を整えず、さらに7月31日の両国会談ではイラクを激しく非難した。
8月1日に、両国を仲介していたエジプト大統領のホスニー・ムバーラクとパレスチナ解放機構(PLO)議長の ヤーセル・アラファートは「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。 イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。
戦争が終わった結果、影響
損失
ベトナム戦争以降、アメリカ軍は敵味方関係なく人的被害の公開を恐れ、多国籍軍の死者はおろかイラク軍の戦死者
の総数もはっきりしていない。最も少ない見積もりでは1万人以下とされている。一般的には死者が10万は超えている
とされ、多いもので15万の死者が出たという。一方、多国籍軍はこの戦争で149名の死者を出し、513名が負傷した。
また37名が行方不明、46名が捕虜として連行された。航空機は64機、車両は84両を失った。
この戦争以降、アメリカ軍と本格的に戦闘をする国の死者をカウントするのはタブー視される雰囲気が
アメリカ軍にはあると言われている。
敵国の死者を計算し、それについて記者会見で質問をした記者をその会見以降から締め出し、会見場の入場禁止に
したりするなど情報統制は徹底している。
このためその数値の真偽は定かではないが、民間機関や市民団体が統制を破るべく独自にカウントし、
インターネット上で発表するなどしている。また戦闘において、多国籍軍は劣化ウラン弾を使用し、この兵器による
悪影響(湾岸戦争症候群)が戦後糾弾されるようになったが、その影響について多国籍軍は否定した。
ペルシャ湾への重油流出
この戦争でペルシャ湾に大量の重油が流出し、環境が大きく損なわれたと言われている。
これについてイラク側は「多国籍軍による空爆により重油が流出した」と主張し、一方アメリカ側は
「イラク側がアメリカ企業の油田を破壊した際に流出させた上に、退却する際に煙幕として火を放つために
流出させた」と主張し、海鳥が重油まみれになっている映像をテレビで配信してイラクを批判した。
その後この流出の原因は双方にあることが判明したものの、いずれにしても「海鳥が重油まみれになっている
映像」は湾岸戦争で録られたものではなく、オイルタンカー事故のものであることが判明した。
戦後の調査で、油まみれの鳥の映像を、巨額の報酬で宣伝していたCM会社が明るみに出て問題となっている。
イラク軍はクウェートの732本の油井を破壊して640本が炎上し、8か月間も燃え続けた。
また、1000万バレルもの原油がペルシャ湾に流出、1500キロにわたって海岸線が汚染されたほか、
大量の大気汚染物質が大気中に排出された。
アメリカ軍の戦費
アメリカ軍は、湾岸戦争に610億ドルを費やした。
しかしアメリカの自己負担は70億ドルだけで、サウジアラビアとクウェート160億ドル・アラブ首長国連邦40億ドル・
日本90億ドル・ドイツ70億ドルなど、大部分がこの地域にある国、またはこの地域に利権が絡む国の援助により
まかなわれたという(内訳は文献により異同がある)。
戦後補償
国連はイラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、
「国連補償委員会」を設置。総額で524億ドルの賠償を求め、「石油と食料交換プログラム」に基づき、
そのうち270億ドルを石油収益でクウェートへの補償に当てるとした。
フセイン政権時代は補償金を拠出するのを渋り続けため少額しか支払われなかったが、フセイン政権崩壊後も 支払いは続けられ、2007年現在4億6960万ドルが支払われた。しかしおよそ254億ドルが未払いである。
このためクウェート側はイラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁を まだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。
この記事を書いた人【 雅 】
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